About TAKANO幻の時計ブランド「タカノ」について
1899年に設立された「高野時計金属製品製造所」を前身とし、1938年に改称。
初期は掛時計や置時計のみの展開であったが、1957年よりタカノ銘での腕時計の製造を開始した。
- 1899年
- 高野時計金属製品製作所設立
- 1938年
- 高野精密工業株式会社に改称
- 1957年
- タカノ銘としては初の腕時計となる「200」シリーズ販売開始
- 1962年
- 理研光学工業株式会社(現・株式会社リコー)を中核とする三愛グループが
高野精密工業株式会社を継承、ブランドとしてのタカノの終焉
「タカノ」は短命に終わったが、日本時計界において極めてエポックメイキング的な存在であった。
名古屋の本社工場はスイス製の精密自動旋盤やバーチカルドリリングマシン、バーチカルミリングマシンが整備され、当時としては先進的な恒温・恒湿の環境を有していた。
1958年10月には高松宮殿下が当時の愛知県知事とともに本社工場を訪問された。
TAKANO History「タカノ」の歴史
世界的高級時計を目指す
これは、かつてタカノが腕時計製造において掲げていたコンセプトである。
タカノのファーストモデル「200」シリーズは、1957年に誕生した。
このモデルは「ラコー型」との愛称が付けられている。
ムーブメントは、ドイツ・ラコー社が使用していたドローヴェ社製ムーブメントを、アメリカ・ハミルトン社の時計技師長であるリチャード・W・スラウ氏の指導により、加工を施し、信頼性を高めたものである。
高野精密工業株式会社は1954年よりラコー社の腕時計の組み立てを請け負っていた。
ブランド創設の翌年には、顧客向けの冊子「タカノレポート」を発行。
創刊号には、世界のタカノへの抱負として下記のように書かれている。
タカノの時計は従来の時計会社が理想として描いてきたものを実現させた時計と確信しています。
高級時計ならばスイスという考え方を変える時代を作ろうとしています。
そして世界的視野のもとに常に先頭に立って、皆様の御援助のもとにますます御期待に沿えるよう努力してまいりたいと思います。
1959年に発表された「オパール」は当時、国産で最も小さい腕時計であり、搭載するムーブメントは、巻上ヒゲを採用した高精度な高級機であった。この時計を身に着けた作家の有吉佐和子氏が執筆する様子の写真もタカノレポートに掲載されている。
タカノは、有名人をアンバサダーに起用し、時計の魅力をアピールするというマーケティング手法も、日本で先駆けであったように思われる。
しかし、1959年の伊勢湾台風によりタカノは甚大な被害を受けた。
そうした状況の中、新製品の完成が発表された。
翌年に発売となる「シャトー」である。
この名は、名古屋市制70周年を記念し再建された「名古屋城」にちなみ、“城”を優美なイメージのフランス語に置き換えて付けられた。
「シャトー」は「ラコー型」と異なり、完全自社開発・製造の手巻きキャリバー541を搭載していた。
ムーブメントの厚みは3.5mm。これは当時、本中3針と呼ばれる二番車と四番車を同軸に置いたセンターセコンド式ムーブメントとしては世界最薄であった。初期型は23石。その後量産しやすい21石のキャリバー531や角型時計向けの小径キャリバー533など、シャトーは誕生の年に早くもバリエーションを増やした。
1961年には、ムーブメントの仕上げに凝った「シャトーデラックス」が登場。
同年、今回復活した新生タカノ初号機のモデル名の由来となった「シャトーヌーベル」がリリースされた。搭載するキャリバー541Nは、耐震装置に当時最新式だったキフ・フレクターを採用していた。
そして1962年2月に「タカノ」銘最後のモデルとして登場したのが「シャトーカレンダー」であった。その名にあるようにコレクション初のデイト表示搭載モデルである。
しかし登場から2ヶ月足らずで姿を消すこととなった。
同年4月1日、高野精密工業株式会社の経営は、理研光学工業株式会社に引き継がれ、ブランドとしてのタカノは終焉を迎えた。理研光学工業株式会社創業者の市村清氏が中京経済界・各団体から度重なる要請を受け、当時の佐藤栄作通産大臣からの強い要請もあり、業績不振極まる高野精密工業株式会社の再建を引き受ける決断をして、時計作りの継続と会社の再建を引き受けた。
タカノムーブメントの変遷
それはLacoの国産化から始まった